【公式】日本三大弁財天・江島神社

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八坂神社。寛政2年(1790年)に江戸幕府に提出した文書に「牛頭天王一坪半ごずてんのうひとつぼはんと記されていますので、創建はそれ以前と考えられています。

江島神社境内末社の八坂神社は、江戸時代まで「天王社」と呼ばれていましたが、明治6年(1873年)に八坂神社と改称されました。御祭神の建速須佐之男命たけはやすさのおのみことは天照大御神の弟神ですが、その御神格が非常に猛々しい為、疫病を始めとする様々な厄災を祓う神様として信仰されています。
※場所についてはこちらをご覧ください。

八坂神社鎮座の伝承

小動神社境内から臨む江の島。

八坂神社のお祭りは、その御鎮座にまつわる伝承が大きく関係しています。その昔、江の島の海で漁をしていた大海士たいかいし)(素潜りの漁師の事で江の島独自の呼び名)が、岩屋沖に沈む須佐之男命の御神像を引き上げました。この御神像は、対岸の腰越の小動岬こゆるぎみさきに鎮座する小動神社で祀られていたものと判明しましたが、江の島に祀られる事となりました。これが八坂神社鎮座の伝承です。

八坂神社例祭のクライマックス「神幸祭」

神幸祭当日9時30分~、江島神社の辺津宮境内で行われる発輿祭。

毎年7月の14日を中心とする五日間にわたる八坂神社例祭は、御祭神がゆかり深い腰越までお出かけになる「神幸祭」でクライマックスを迎えます。神幸祭当日、辺津宮境内で御神輿の 発輿祭はつよさいが行われ、宮司以下神職により祭儀が奉仕されます。

シャンギリの演奏が華やかに行われる中、御神輿は海上渡御へと向かいます。

祭典後、いよいよ御神輿がお発ちになります。腰越からお出迎えのお囃子を先頭に、江島天王囃子とよばれる里神楽にも似た非常に珍しい優美なお囃子もお供に、屈強の男衆に担がれて御神輿は石段を下りていきます。多くの参拝者、観光客のあふれる参道を練り、島の入り口にお着きになると、御神輿は海に入る支度をします。やがて御神輿は特設されたスロープを渡り、担ぎ手の「ヨイヨヨイヨ」のかけ声も勇ましく海に入っていきます。

御鎮座の故事を再現する東浦祭典

お神輿が海中に浮きつ沈みつする頃、船を仕立てたお囃子の一行が近づいてきます。五色の旗をなびかせた神職船は海上からお祓いし海上渡御を見守ります。

約30分間行われる海上渡御。
木臼4つに戸板を乗せ、その上に奉安されている御神輿。東浦祭典で。

ひとしきり担ぐと上陸し、その昔、大海士が住んでいた江の島の「東浦」という区域に進み、かつて大海士が海から引き上げた御神像を仮安置したとされる場所にお神輿を据えます。当時、大海士は御神像をありがたい物として、木臼4つに戸板を乗せ、その上に御神像をお載せしたのですが、今もお神輿がこの場所に着くと、そのときの木臼と戸板の上に奉安されるのです。

海から上陸した御神輿は、消防用のホースで真水をかけられてから、東浦祭典に向かいます。

このように、お神輿が海に入るのは「禊」の要素だけでなく、海中から出現された神を表現し、さらに祭り始めの場面を再現する大変意義深いものがあるのです。祭りの意義は、「神祭りの原初に還る」ことにほかなりません。毎年、八坂神社御鎮座の故事を再現することにより、御祭神の御神威をますます若々しくしていただくのです。

海を隔てた二つの神社で行われる江の島独自の夏祭り

江の島弁天橋(歩道)を渡り、腰越に向かう御神輿。

東浦を発輿すると、御神輿は江の島弁天橋を渡り腰越に向かいます。片瀬龍口寺前で、お迎えの小動神社のお神輿と合流し、二基並んで小動神社まで渡御します。時折通過する江ノ電の車両とスレスレになりますが、これもまたこのお祭りの見所です。御祭神の古里ともいえる小動神社にお着きになって御祭儀を奉仕した後、お神輿は再び担がれて江の島にお戻りになるのです。

江の島における八坂神社のお祭りは、夏の疫病や災いを祓いのける意義と、大海士の伝承が加わった江の島独自の夏祭り「天王祭」なのです。令和2年4月1日 市指定重要無形民俗文化財 指定。

御神幸に先だって通り囃子、大海士、宮太鼓、猿田彦大神、五色榊、五色の旗、賽銭箱…と長い列が続きます。
小動神社の御仮宮で、二基の御神輿が揉みあい最大の盛り上がりを見せます。

【令和5年 例祭諸儀日程】

7月 9日 天王祭 
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